2022年度 文化財学・民俗学部会発表要旨
 
一、現存古代建築の妻側屋根に関する考察

広島大学 勝野永

 法隆寺東院伝法堂(切妻造)や新薬師寺本堂(入母屋造)などといった現存する古代建築を見ると、これらの梁や桁、垂木の掛かり方には一定の傾向が認められる。すなわち、垂木は桁で受け、梁では垂木を受けないこと、桁は二間分を一息に渡さず、一間ごとに渡すことなどが傾向として見ることができる。
 一方で、創建時入母屋造(現状寄棟造)とされる室生寺金堂では妻側の化粧垂木尻は梁が受けていることが知られるほか、浄瑠璃寺本堂の妻側は桁が二間分を一息で渡しているなど、時代が下るにつれて垂木の掛かり方が多様になる。
 本発表では、現存する古代建築の屋根について、特に妻側の梁や桁、垂木などの掛かり方を詳細に検討する。また、旧規を踏襲したとされる鎌倉時代の現存例も含めて検討したうえで、古代建築の屋根形式における特徴の変遷を指摘する。



二、滋賀県高島市の貴船神社本殿

福井大学 大坪将太朗福井大学 山田岳晴

貴船神社本殿は、琵琶湖に隣接する滋賀県高島市マキノ町知内に現存する。当本殿は覆屋内に建ち、同覆屋内の日吉神社本殿の左隣に並ぶ。琵琶湖に流れ着いた本殿を貴船神社として、日吉神社と合祀したと伝えられるが、その時期や詳細は不明である。現在は両社とも同地区の唐崎神社(川裾宮)の境外社となっている。今回、貴船神社本殿の学術調査を行い、風食や細部意匠から十五世紀後期のものと判断でき、中世の小規模神社建築の特徴である一木造出の部材が多く見出されたので、調査結果を報告する。貴船神社本殿は桁行一間、梁間二間の一間社流造、本杮葺で、身舎は円柱、庇は角柱である。組物は庇が連三斗、身舎が舟肘木であり、桁・斗・肘木、桁・舟肘木の一木造出を用いている。妻飾は虹梁大瓶束式で太瓶束下端に結綿があり、渦がよく巻く特徴的な形をしている。貴船神社本殿は修理を重ねているが、主要部材は当初材であり、貴重な中世神社建築の事例である。


 
三、安土城天主の梁組に関する考察

広島大学 中村泰朗

 安土城天主は天正七年(一五七九)に織田信長が築いた五重天守である。同天主の復元史料としては太田牛一が記した『信長公記』があり、同書の内容と天主台遺構、そして現存する城郭建築を統合的に検討することで、同天主の蓋然性の高い復元考察が可能となる。
ところで一般的な天守では下階の梁に根太を敷き並べて上階の床板を張る。また後世の天守を通覧すると、身舎と入側とで梁の通る高さが変わらない形式と、身舎梁を入側梁よりも一段高く架ける形式がある。前者の形式であれば、上階の床板は下階の桁上端とほぼ同高になるため、両階の逓減が大きかった場合、上階は下階の屋根によって埋没する。このように天守は重層建築であるため、上階の平面は下階の梁組によって制約を受ける。
本発表では、後世の天守を詳細に検討するとともに、『信長公記』の内容を併せて見ることで、安土城天主の梁組を明らかにする。そのうえで同天主の三階以上の復元考察に繋げたい。


 
四、全国の城郭における月見櫓の資料調査

名古屋工業大学 梶田みさと
福井大学 山田岳晴

かつて、全国の多くの近世城郭には、月見櫓と呼ばれる櫓が存在していた。しかし現在、月見櫓は松本城、岡山城、高松城の3 例しかない。また現在、月見櫓はその名称から、満月を観る目的の建物と想定されることが多いが、どういう櫓が月見櫓であり、そう呼ばれることになるのか、少ない現存例からだけでは実体を明確にすることはできない。今回、歴史資料の調査を行い、全国の城郭において月見櫓が約40棟存在したことが判明し、それらの歴史資料が確認できた。これら歴史資料の調査結果や、月見櫓の城郭における配置から、現在の一般的な想定に適さない月見櫓の存在が多数見出された。今回は、名古屋城の城郭における西側に配置された月見櫓を中心に、当時、行われていたことが確認できた三日月の観賞の関係について考察し、その城郭における月見櫓の配置の正当性を指摘したい。



五、神辺本陣における関札と「水牛之冑写之画」

福山大学 柳川真由美

神辺本陣資料には、福岡藩の絵師、尾形聴松に関する書状が数点含まれており、そこから本陣の亭主、菅波序平が「水牛之冑写之画」あるいは「当家紋付之甲冑之図」を得ることを懇望し、制作を依頼していたことが確認できる。この「水牛之冑」は「黒漆塗桃形大水牛脇立兜」を指すとみられる。
また、神辺本陣には休泊時に用いられた数多くの関札が残るが、その一部を正月に祭り、拝することで、福岡藩主への尊崇の念を示し、共有していたことも確認できた。「水牛之冑」の図の制作依頼は、関札にかわる福岡藩主の象徴として祭ることを意図としたものと推察される。
神辺本陣が福岡藩主の専用本陣的な位置づけであったことはよく知られており、許可を得て本陣施設に藤巴紋の瓦を用いていることは、福岡藩と他藩が区別されていたことを物語っている。本報告では、こうした既知の事実に加え、関札を祭る行為や画像の制作依頼を通じて、福岡藩専用本陣としての神辺本陣のあり方や日常的な活動の一端を示したい。